奈良地方裁判所 昭和45年(ヨ)37号 判決 1970年10月23日
債権者 有限会社フオセコ・ジヤパン・リミテイツド
債務者 奥野重義 外一名
主文
債権者が保証として金一、〇〇〇、〇〇〇円を供託することを条件として、債務者両名は別紙目録<省略>記載の金属鋳造用副資材の製造販売業務に従事してはならない。
訴訟費用は債務者両名の負担とする。
事実
第一、当事者の求めた裁判
一、申請の趣旨
「債務者両名は別紙目録記載金属鋳造用副資材の製造販売業務に従事してはならない。」との判決。
二、申請の趣旨に対する答弁
「本件仮処分申請を却下する。」との判決。
第二、当事者の主張
一、申請の理由
(一) 被保全権利について
1 債権者は英国のフオセコ・インターナシヨナル・リミテイツドと、日本の伊藤忠商事株式会社他数社との合弁会社であり、金属鋳造の際に使用する熔湯処理剤、鋳型用添加剤、押湯保温剤等の各種冶金副資材の製造販売を業とするものである。
2 債務者奥野重義(以下債務者奥野という。)同大松暎幸(以下同大松という。)は共に昭和三三年三月債権者の前身である有限会社フアンドリー・サービセス・ジヤパン・カンパニー・リミテイツドに入社、爾来債務者奥野は同四四年六月一七日に退社するまで満一〇年に亘つて債権者の本社研究部(後に技術部、開発部と名称変更)に属し、更に退社時には豊川工場の現場の製品品質管理を担当し、債権者の技術の中枢部に直接関与し、又債務者大松は同四〇年四月迄約七年間本社研究部に所属して、債権者の重要極秘技術に関与し、更に以後同四四年六月三〇日退社するまで大阪支社鋳造部本部で技術知識を有する販売員として債権者の製品販売業務に従事し、債権者の顧客と接触していた。
3 債権者の製造販売している製品は各種冶金副資材と総称されるものであり、簡単に言えば、金属の鋳造に際して、鋳型に塗布したり、熔融金属に添加して用いられたりする種々の化学物質である。それらの多くは高温の熔融金属に直接接触し、高熱下で直ちに反応するものであるから、微妙な効果の差が重大な結果をもたらすという性質のものであるため、その製造には多くの技術的秘密が存している。
4 債権者は前項の技術的秘密を保持するため債務者奥野及び同大松との間にそれぞれ、同三七年一月一〇日及び同四一年九月五日の二回に亘り、左記の内容の契約(以下本件特約と略称する。)を締結した。
記
(1) 債務者両名は雇傭契約存続中、終了後を問わず、業務上知り得た秘密を他に漏洩しないこと。
(2) 債務者両名は雇傭契約終了後満二年間債権者と競業関係にある一切の企業に直接にも、間接にも関係しないこと。
5 さらに債権者は特に技術の中枢部に当る研究部(現在の開発部)に所属する非管理職社員に対して通称SDA(Secret duty allowance )と称する機密保持手当を支給しており、債務者奥野、同大松両名とも、この特別手当を受けていた。
6 昭和四四年六月債務者両名は相前後して債権者を退職し、同年八月二九日訴外アポロケミカル株式会社(以下アポロケミカルと略称)が設立されるやそれぞれ同社の取締役に就任した。
7 右アポロケミカルは、その定款上、営業目的を鋳造用金属熔湯処理剤、鋳型用添加剤、製鋼用押湯保温剤の製造販売とし、債権者のそれと競合するのみならず、実際にもアポロケミカルは、債権者の製品と対応する製品を試作し債権者の得意先等に対し取引を申し入れ販売活動を行つている。
8 アポロケミカルの商品は全て債権者の商品と対応し同様の組成を示し、類似の効果を示すものである。
9 従つて債務者両名は、共に本件特約に違反して債権者と競業関係にある企業に関与しており、そしてアポロケミカルの他の取締役は冶金材料の製造販売に全く無縁な人物であるところからして、アポロケミカルの営業目的である金属鋳造用副資材の製造販売は債務者らの知識経験に基くものであることは明らかであり、債務者らは債権者に在職中その業務上知り得た技術的秘密を右アポロケミカルないし同社従業員に漏洩しているものである。又アポロケミカルの販売目標は債権者の得意先であるから、債務者らが、債権者の得意先に関する秘密をもアポロケミカルに漏洩していることも明白である。
よつて、債権者は債務者両名に対し、本件特約に基いて、同人らのかかる本件特約違反行為の差止めを請求するものである。
(二) 保全の必要性について
右アポロケミカルは昭和四四年九月頃から営業活動を開始し、試作した債権者製品類似の製品見本をもつて債権者の顧客に対し、取引を申し入れ、或いは更に製品納入をとりつけ、もつて債権者製品の納入停止等を惹起せしめる等して債権者に損害を与えつつある(トヨタ自動車工業他十数社が取引の申し込みを受け、昭和四四年一〇月二六日債権者の得意先である神戸製鋼所岩屋工場に債権者製品のコーフアツクス8Kに相当する製品の納入をとりつけ、同年一一月五日には同じく債権者の得意先の正起鋳物株式会社に働きかけアポロ製品のパートクツクを採用させ、そのため債権者のセパロール111の納入はとりやめになるなどアポロケミカルは現実に債権者の得意先を奪いつつある。)。債権者は親会社たる英国のフオセコ・インターナシヨナル・リミテイツドその他から製造技術について特許の実施権その他ノウハウを含む技術供与を受け、これに対して、その実施料等を支払つている他、債権者も独自に技術の開発につとめ、多額の投資をした結果、多くの技術的秘密(製法上の秘訣)を有するようになつたものである。これら技術開発に伴う費用を必要としなかつたアポロケミカルの方が、製品コストが安価で済むのは当然のことであり、そのため、一般市場において債権者製品が不利な立場に立たされ、このまま放置しておけば、債権者は顧客を失い、債権者に回復しがたい損害が生ずるであろうことは明らかである。なお債務者らの勤務するアポロケミカルは、その事業はまだその緒についたばかりであつて設備投資も殆んどなく、若干の実験的設備により商品見本を試作している段階であり、債務者両名の競業行為差止めによつて被むる損害は債権者のそれに比し、比べものにならないほど少ない。よつて、債権者は本案確定を待つ余裕がないので本件仮処分申請に及んだ次第である。
二、申請の理由に対する答弁
1 申請理由(一)の1の事実のうち、債権者が冶金用副資材の製造販売を業としていることは認め、その余の事実は不知。
2 同(一)の2の事実のうち債務者奥野が債権者の技術の中枢部に関与していたこと及び、債務者大松が債権者の重要極秘技術に関与していたことについては不知、その余の事実は認める。
3 同(一)の3の事実のうち、各種冶金用副資材の製造方法に多くの技術的秘密が存することは否認する。即ち、鋳鉄用金属関係の副資材、添加剤に関する製造方法は既に学界及び業界において公知公然且つ公用となつており何等の技術的秘密は存在せず、従つて特許権等によつても保護されていないのである。
4 同(一)の4の事実は認める。
5 同(一)の5の事実は否認。
6 同(一)の6・7の事実は認める。
7 同(一)の8の事実は不知。
8 同(一)の9の事実のうち債務者両名が債権者と競業関係にある企業に関与している事実は認めるがその余の事実は否認。アポロケミカルは製造技術に関しては訴外田口長兵衛近畿大学教授の指導に基いて実施しているのである。
9 申請理由(二)の事実はすべて争う。
三、抗弁
本件競業避止特約は公序良俗に反し無効である。即ち競業避止が債務者の退職後の事情の如何を問わず二年間に亘ること、区域は無条件に全国一円に及ぶこと、右避止期間に対する代償又は補償は全く考慮支給されず、一律に同種の事業への就業を広汎に禁止していることなど、債務者らにとつて著しく不利益であるから、その内容上職業選択の自由を保障した憲法二二条一項、或いは憲法二五条、労働基準法等の趣旨に照らし民法九〇条の公序良俗に違反し無効である。
四、抗弁に対する答弁
本件競業避止特約は、期間は二年という比較的短期間であり、対象となる職種も債権者と競業関係にあるものだけに限定されており、その範囲は頗る狭いものであり債務者らの基本的人権をおびやかすことはなく公序良俗に反することはない。
第三、証拠関係<省略>
理由
一、債権者が、金属鋳造の際使用する熔湯処理剤、鋳型用添加剤、押湯保温剤等の各種冶金用副資材の製造販売を業としていること、アポロケミカルが、定款上冶金用副資材の製造販売を業とするものであることは当事者間に争いがなく、成立に争いのない疎甲第八号証の二、三によれば、アポロケミカルの製品は全て債権者の製品と対応し、現実に債権者の得意先等に対し債権者と同様の営業品目を製造販売していることが認められ、他に右認定に反する疎明はない。すると、債権者とアポロケミカルは競業関係にあるといえる。
二、債務者両名は共に昭和三三年三月債権者に入社し、同四四年六月に相ついで同社を退社したこと、債務者奥野は入社時より約一〇年間に亘り債権者の本社研究部(後に、技術部・更に開発部と改称)に所属し、退社時には豊川工場の現場の製品管理を担当したこと、債務者大松は入社時より同四〇年四月まで本社研究部に所属し、以後退社するまで大阪支社鋳造本部で販売業務に従事していたこと、債務者両名は、債権者に在職中、債権者との間に秘密漏洩禁止、退社後の競業避止に関する本件特約を結んだこと、債務者両名が債権者を退社後まもなく昭和四四年八月二九日にアポロケミカルが設立されると同時に同社の取締役に就任したことは当事者間に争いがない。
従つて債務者両名は、債権者との本件特約に違反し、債権者と競業関係に立つ企業に関与したということができる。
三、次に債権者は右特約違反に基いて債務者両名の競業行為の差止めを請求しているものであるから、本件特約の効力について検討を加える。
一般に雇用関係において、その就職に際して、或いは在職中において、本件特約のような退職後における競業避止義務をも含むような特約が結ばれることはしばしば行われることであるが、被用者に対し、退職後特定の職業につくことを禁ずるいわゆる競業禁止の特約は経済的弱者である被用者から生計の道を奪い、その生存をおびやかす虞れがあると同時に被用者の職業選択の自由を制限し、又競争の制限による不当な独占の発生する虞れ等を伴うからその特約締結につき合理的な事情の存在することの立証がないときは一応営業の自由に対する干渉とみなされ、特にその特約が単に競争者の排除、抑制を目的とする場合には、公序良俗に反し無効であることは明らかである。従つて被用者は、雇用中、様々の経験により、多くの知識・技能を修得することがあるが、これらが当時の同一業種の営業において普遍的なものである場合、即ち、被用者が他の使用者のもとにあつても同様に修得できるであろう一般的知識・技能を獲得したに止まる場合には、それらは被用者の一種の主観的財産を構成するのであつてそのような知識・技能は被用者は雇用終了後大いにこれを活用して差しつかえなく、これを禁ずることは単純な競争の制限に他ならず被用者の職業選択の自由を不当に制限するものであつて公序良俗に反するというべきである。しかしながら、当該使用者のみが有する特殊な知識は使用者にとり一種の客観的財産であり、他人に譲渡しうる価値を有する点において右に述べた一般的知識・技能と全く性質を異にするものであり、これらはいわゆる営業上の秘密として営業の自由とならんで共に保護されるべき法益というべく、そのため一定の範囲において被用者の競業を禁ずる特約を結ぶことは十分合理性があるものと言うべきである。このような営業上の秘密としては、顧客等の人的関係、製品製造上の材料、製法等に関する技術的秘密等が考えられ、企業の性質により重点の置かれ方が異なるが、現代社会のように高度に工業化した社会においては、技術的秘密の財産的価値は極めて大きいものがあり従つて保護の必要性も大きいと考えられる。即ち技術的進歩、改革は一つには特許権・実用新案権等の無体財産権として保護されるが、これらの権利の周辺には特許権等の権利の内容にまではとり入れられない様々の技術的秘密-ノウハウなど-が存在し、現実には両者相俟つて活用されているというのが実情である。従つてこのような技術的秘密の開発・改良にも企業は大きな努力を払つているものであつて、右のような技術的秘密は当該企業の重要な財産を構成するのである。従つて右のような技術的秘密を保護するために当該使用者の営業の秘密を知り得る立場にある者、たとえば技術の中枢部にタツチする職員に秘密保持義務を負わせ、又右秘密保持義務を実質的に担保するために退職後における一定期間、競業避止義務を負わせることは適法・有効と解するのを相当とする。
四、以上の視点から本件特約を検討してみるに、本件特約は秘密保持義務と競業避止義務の二項から成り、そして競業避止義務は秘密保持義務を担保するものであるから、本件特約の重点は前者にあるものと考えられる。
(一) 秘密の存在について
1 本件において秘密と称されているのは金属鋳造用の副資材の製造法(材料・工程等)に関する秘密である。弁論の全趣旨より真正に成立したものと認められる疎甲第一二、一五号証によれば、債権者は親会社より技術援助を受けるに際して製品の成分・製造方法に関して秘密の漏洩防止を義務づけられていること、債権者では研究部・生産部に所属する社員に対してS・D・Aと称する特別の機密保持手当を支給しており、債務者両名に対しても右特別手当が支給されていたことが認められ、更にハンドブツクの検証結果によれば、債権者にはそれぞれ極秘フオセコ作業ハンドブツクが存在し、それらにはそれぞれ第四巻原料明細書、第五巻原料配合、第六巻製造工程の表示があり、右ハンドブツクによると第五巻一〇三頁の債権者製品イノキユリン10の欄のRMの項には427Bなる記載があり、その427Bがいかなる物質であるかについては第四巻の427Bの項にその物質名・粒度等の特性が記載され、製造工程については、第六巻の対応箇所に反応温度、作業時間等の製造工程に関する諸条件についての説明の記載があること、イノキユリン10の製造方法については右三冊のハンドブツクを照合して初めて全体が明らかになるようになつていることが認められ他に右認定を覆えすに足る疎明はない。そして右ハンドブツクの性格、記載の方式等からして、債権者の他の製品の製造方法についてもイノキユリン10の場合と同様に原料、原料配合、製造工程の三つに分けて記載され三冊のハンドブツクを照合して、その全体が明らかになるようになつていることが推認できる。以上の説示認定事実によれば、債権者は、その製品製造工程に債権者独自の技術的秘密を有していることが認められ、なお疎乙第一、二号証は接種効果を示す物質ないし離型剤についての一般的知識が公知であるという疎明に過ぎず、又疎乙第三ないし七号証によつても前記認定を覆えすに足りない。
2 前述のように債権者が技術的秘密を有するとしても、市販されている債権者製品の分析により極めて容易に製造しうるものであるとすれば、それは債権者にとつて主観的にはともかく、客観的には保護に値する秘密とは言い難いのでその点について更に検討を加える。
前出の疎甲第八号証の二、三により、アポロケミカルの製品は全て債権者製品と対応することが認められること前示のとおりであつて又前出疎甲第八号証の一、弁論の全趣旨よりそれぞれ全部真正に成立したものと認められる疎甲第九、一〇号証、一三号証によれば、アポロ製品のイノクラーゲン、パートクツク、カバラーゲンA-1、A-2はそれぞれ対応する債権者製品のイノキユリン10ないしJDR二六三B、セパロール111、カバラールとほぼ同一の組成を示し、同様の効果を示すことが認められ、以上の事実から他のアポロ製品とそれに対応する債権者製品についても組成・効果の点でほぼ同様の関係にあることが推認でき、右認定を覆えすに足りる疎明はない。これをアポロ製品のイノクラーゲンに対応する債権者製品のイノキユリン10及びJDR二六三Bを例にとつてみるに、前出の疎甲第九、一〇号証、成立に争いのない疎甲第二八号証、証人寺岡皓一の証言を総合すると、イノキユリン10及びJDR二六三Bはカルシウムシリサイド、シリコン鉄、シリコン鉄ジルコニウム、炭素の四種類を主原料としていること、一般に物質の分析には元素分析と組成分析があり元素の種類とその重量パーセントを求める元素分析は研究室等で直ちに分析可能な方法であり、比較的容易であるがイノキユリン10のような接種剤は、各種の有機化合物質を混合して作るのであるから、元素分析だけでは足りず、製造方法を考えるには、存在する元素が相互にどのような結合状態で存在するのか、またそれぞれの元素がどのような化合物の形で存在しているかを明らかにし、これら結合状態の各物質および化合物のそれぞれ含有量を測定する組成分析がなされなければならないこと、そして、イノキユリン10のように多成分の混合物においてはその完全な分析は、高度の専門的知識と技術をもつてしても相当に困難なことで、相当長期の研究が必要であること、イノキユリン10及びJDR二六三Bの場合フエロシリコンジルコニウムを原料としているが、右物質は他のシリコン鉄との区別が比較的困難であるということ及び特殊な物質であるため、殆んど全部輸入に頼つており、入手が比較的困難であるため、材料選定が比較的困難であることが認められ、証人田口長兵衛の証言のうち右認定に反する部分は前掲各証拠に照らし措信できず、又、成立に争いのない疎甲第一六ないし二二号証によればイノキユリン10は、炭素の粒度の極めて小さな違いにも微妙に反応すること、そして、炭素原料としては、電極屑、それも昭和電極のもののみが有効であることが認められ、以上は分析では解明しえない性質のものであると言うことができる。以上の認定事実を総合すると、債権者製品のイノキユリン10及びJDR二六三Bの製造方法には債権者独自の技術的秘密が存在し、市販のイノキユリン10等の分析により容易に製造しうるというようなものではないことが推認され、以上の各認定を覆えすに足りる疎明はない。そしてアポロ製品に対応する他の債権者製品の製造方法に関して、一般的に技術的秘密の存在が推認されること前述のとおりであり、混合物の組成分析の困難さは債権者の他の製品にも共通することであるから、他に右認定を左右する疎明のない以上、債権者の他の製品についても、市販されている債権者製品を分析することにより直ちに製造しうるものではないと推認して差しつかえないと解する。従つて債権者は客観的に保護されるべき技術上の秘密を有しているといえる。
(二) 債務者両名の競業避止義務について
1 弁論の全趣旨により成立の認められる疎甲第七号証、及び前出の疎甲第一六ないし一七号証によれば、債務者奥野は債権者の研究部では製造部から持ち込まれる原料の処方や温度等の作業諸条件の検討、製造後の製品検査に従事し、昭和四三年八月からは豊川工場の検査課長として製品の品質管理にあたつていたこと、イノキユリン10の製法について特に知識のあること、又債務者大松は研究部所属中は同奥野と同様の職務に従事しており、大阪支社においては、営業部員に対する技術指導等に従事していたことが認められ、右認定に反する疎明はないので、債務者両名は、債権者の技術的秘密を知り、知るべき地位にあつたと言うことができる。
2 そして債務者両名が昭和四四年六月債権者を退職すると、まもなく、同年八月二九日にアポロケミカルが設立され、両名は取締役となり、直ちに債権者製品と同様の製品の製造販売活動を行つていること前認定のとおりであるので債務者両名の有する知識がアポロケミカルにおいて大きな役割を果していることは十分推認できるところであり、従つて、債務者両名は、競業者たるアポロケミカルに対し、債権者の営業の秘密を漏洩し、或いは必然的に漏洩すべき立場にあると言え、債権者は本件特約に基いて債務者らの競業行為を差止める権利を有するものといえる。
五、抗弁に対する判断
債務者らの主張は、要するに本件特約が債務者にとつて著しく不利益なものであつて、債務者の生存をすら脅かすものであり、公序良俗に反して無効であるというにある。競業の制限が合理的範囲を超え、債務者らの職業選択の自由等を不当に拘束し、同人の生存を脅かす場合には、その制限は、公序良俗に反し無効となることは言うまでもないが、この合理的範囲を確定するにあたつては、制限の期間、場所的範囲、制限の対象となる職種の範囲、代償の有無等について、債権者の利益(企業秘密の保護)、債務者の不利益(転職、再就職の不自由)及び社会的利害(独占集中の虞れ、それに伴う一般消費者の利害)の三つの視点に立つて慎重に検討していくことを要するところ、本件契約は制限期間は二年間という比較的短期間であり、制限の対象職種は債権者の営業目的である金属鋳造用副資材の製造販売と競業関係にある企業というのであつて、債権者の営業が化学金属工業の特殊な分野であることを考えると制限の対象は比較的狭いこと、場所的には無制限であるが、これは債権者の営業の秘密が技術的秘密である以上やむをえないと考えられ、退職後の制限に対する代償は支給されていないが、在職中、機密保持手当が債務者両名に支給されていたこと既に判示したとおりであり、これらの事情を総合するときは、本件契約の競業の制限は合理的な範囲を超えているとは言い難く、他に債務者らの主張事実を認めるに足りる疎明はない。従つて本件契約はいまだ無効と言うことはできない。
六、保全の必要性に対する判断
前出の疎甲第八号証の一によれば、昭和四四年一〇月二六日債権者の得意先神戸製鋼所岩屋工場において、アポロケミカルが債権者製品のコーフアツクス8Kに相当するアポロ製品の納入をとりつけたため債権者製品のコーフアツクス8Kが納入停止になつたこと、同年一一月五日債権者の得意先の正起鋳物よりアポロ製品のパートクツクを購入するからという理由で債権者製品のセパロール111が納入停止となつたことなど債権者主張の如くアポロケミカルが債権者の得意先を蚕食しつつある事実が認められ、これに反する疎明はない。従つて右事実によれば、このまま放置すればアポロケミカルは益々債権者の得意先を侵奪して、債権者に回復しがたい損害を与えるであろうことは容易に推認できる。よつて、本件仮処分申請はその必要性があるものと言わなければならない。
七、以上認定説示のとおりであるから、債権者の本件仮処分申請は全部理由があるのでこれを認容することとし、訴訟費用については民事訴訟法八九条を適用し、なお債権者において金一、〇〇〇、〇〇〇円の保証を立てることを条件として主文のとおり判決する。
(裁判官 岡村旦 高橋一之 林醇)